あそべなくなっている
ある時あそべなくなっていることに気が付いた。
それは『あそびのじかん』(2019年・東京都現代美術館)の参加者が作るお面が壁一面に展示されるワークショップに参加した時のこと。
「では自由にあそんでください」と材料を渡された。自由にあそべばいい場なのに、壁に並んだお面を見ると、いいのつくらないとなあ、という意識でガチガチになってしまった。そうなるとワクワクできず何も思い浮かばず、面白くないなあと思いながら出来上がったお面はやっぱりつまらないもので、(当時4才の)長女がハチャメチャに作ったお面のおもしろさが際立って見えた。
それで虚しいなあ、なんだったんだろうなあといろいろ考えてみると、どうやら最近「あそぶ」ことができてない、あそべなくなっているのかも、ということに気が付いた。
そして考える
それから、あそぶとは何か、どうしてあそべなくなったのかを振り返ってみたり、本を読んだり、考えたりしはじめた。
あそぶとはなにか
- その行為自体が心底楽しい
- それ自体が目的で何かをする
- 自発的・能動的に何かをする
- そのことに意識が集中している
- 自由にやっていい(何かを強制されない)
- あそびきった後は満足感がある
- 身体を使ってあそびきった後は身体的な満足感がある(充実して良く眠れる)
あそぶというのは、それ自体が目的で、自発的・能動的に何かをして、自由にできて、没頭して、それ自体が心から楽しく、終わった後には心身の充実感があるもの。
どうしてあそべなくなったのか
- 勉強や仕事の方が遊ぶことより大事なことのようになっている
- あそぶための時間やあそんだ結果に価値や意味を求めるようになった
- あそぶことのネガティブな感覚が夢中であそことを邪魔するようになった
- 勉強や仕事が優先されてあそぶ時間が少なくなった
- あそぶ機会が減って、あそぶことの充実感・満足感を忘れていった
- あそぶ機会が減って、あそび方がわからなくなった
いつの頃からか、何かをした後に意味なかったと感じたり、意味・価値がないからという理由でやらなかったり、なんでも意味とか価値で振り分けていた。
子どもの頃からあそびより勉強が大事と刷り込まれて、大人になると他人の評価や目を気にするようになり、経済的な価値が優位になって、効率よく無駄なく日常を送るようになって、あそびのネガティブなイメージで意味のない無駄なこととしてあそびが追いやられている。
それで、楽しいことは多い方がいい、そのためにもまず意味・価値をもとめないでたくさんあそべた方がいいと考えるも、そもそも何をやったらいいのかと行き詰まり、思いついたことをやってみたり、誰かを参考にやってみたりを、ログを残しながら検証してみようという活動があそび新聞です。